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実際にイオンクロマトグラフィで測定されている試料の多くはろ過をするだけで測定可能な水です。具体的には,飲料水や用水,汚染の少ない河川水や井戸水等ですね。当然これらの “きれいな水” にも測定対象以外に種々の成分が共存しており,それらの成分が分離や検出の妨害となることがあります。今回から何回かは “マトリックス” の話をしていきたいと思います。

シーズン4 その拾玖(十九)

 

 

こんにちはぁ~。ピーク形状の変化そしてピーク面積の変化まで書き終わり,ちょいと一段落って感じでホッとしているんですが・・・。とはいっても,まだまだ先は長く,のんびりはしていられないんですがね。ここまで,トラブルとして観察される現象を取り上げてその原因と対策的な話をしてきましたが,チョイと視点を変えてトラブルというものに向き合ってみようかと思っています。どういうことかというと,結果側からではなく取り組む側から,試料の性質や成分なんかも考慮して,ハード的な部分よりもソフト・アプリケーションの視点に寄せて行こうかななんて考えているんです。

これまで,「イオンクロマトグラフィの試料は “きれいな水” である」なんて何回か書いてきましたが,実際にイオンクロマトグラフィで測定されている試料の多くはろ過をするだけで測定可能な水です。具体的には,飲料水や用水,汚染の少ない河川水や井戸水等ですね。実際にどんな試料を測定しているかの比率を正確に把握することは難しいんですが,恐らく70~80%が,所謂 “きれいな水” を測定していると思います。但し,これらの水は分離カラムや装置を劣化させないという点で “きれいな水” と言っているだけです。当然これらの “きれいな水” にも測定対象以外に種々の成分が共存しており,それらの成分が分離や検出の妨害となることがあります。

ということで,今回から何回かは “マトリックス” の話をしていきたいと思います。

 
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さて,話を始める前に,”マトリックス (matrix, 複: matrices)” って何かという話から始めましょう。当然,キアヌ・リーブス主演の映画ではないのは誰しもお判りだと思います。この言葉,頻繁に使っているくせに,私はうまく説明することができません。で,WEBにお力添えをお願いました。

本屋さんの三省堂のHP (https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/) の中に,三省堂編纂所が書いている「ことばのコラム (https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column)」 ってのがあります。この中に「10分でわかるカタカナ語」というのがあって,普段何気なく使っているけど,うまく説明できないカタカナ語の解説をしてくれています。その第10回が「マトリックス」です。

「マトリックス (matrix)」とは「母体・基盤」のことで,「何かを生み出すもの」ってのが本来の意味だそうです。数学の方では「行列」のことを示すみたいです。「行列」って,線形代数学の「行列式 (determinant)」で使う,複数の数字を長方形 (格子状) に並べて全体を括弧でくくったものです。複雑な状態に置かれた数列が何かを生み出すってことから「マトリックス」っていうんですかね?

そういえば,「新QC七つ道具」にもマトリックスの付く手法があります。”QC” は,“Quality Control” の略で,「品質管理」を指します。生産現場で品質管理に関わる改善活動として古くからQC活動が行われてきました。私も若い頃にやらされました。正直面白くはなかったんですが,問題解決 (実際にはトラブル解析かな?) の手法を覚えられたという点はプラスでしたかな。近年では,生産現場に限ることなく,間接部門を含めて全社的に品質管理をすべきという考え方 (TQC, Total quality control) に変化しています。「新QC七つ道具」はTQC活動に用いられる手法で,「マトリックス図法」「マトリックス・データ解析法」ってのが含まれています。この内,マトリックス図法はまさしく長方形・格子状の解析手法です。検討すべき2つの属性に含まれる複数の要素・要因を行と列に配置し,行と列の要素の交点にそれぞれの関連度合い・影響度合いを示すことで二次元的に問題解決を進めていく手法です。この「マトリックス図」はまさに,数学の「行列」的イメージですね。

何となくですが,「マトリックス」ってのは,「格子状に複雑に絡み合っている状態・構造」っていう感じを伝えるときに使われている言葉なんじゃないですかね。WEBにおんぶに抱っこの受け売りですが,ちょいとだけ理解が進んだように思えますが・・・。

 
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分析化学分野では,「マトリックス」というとあまりいいイメージがありませんね。「妨害物質」とか「干渉の発生源」って感じをうけませんか?でも,「マトリックス = 妨害成分 (干渉成分)」という意味ではないんですね。日本産業規格JISに分析化学用語がありますので見てみましょう。

JIS K 0211:2013 分析化学用語 (基礎部門)

No. 1092 マトリックス 試料中の分析種以外の主要共存成分。matrix

JIS K 0214:2013 分析化学用語 (クロマトグラフィー部門)

No. 490 マトリックス 分析種以外の試料の構成物。matrix

2つの用語解説は一見似ているようですが,「主要共存成分」と「構成物」ですのでニュアンスが大きく異なりますね。

JIS K 0211で定義される「共存成分」とは,試料の中に同時に存在している成分ってことですね。ただ,「主要」ってことですので,「微量成分」は対象外ってことになっちゃいます。一方,JIS K 0214では「構成物」ですので,「試料に入っているものすべて」ってことになります。例えば,試料中の成分を溶解している溶媒もマトリックスですし,チョイと過大解釈をすれば,測定対象成分と比べて2桁も3桁も濃度が低い成分もマトリックスということとなります。

個人的には,JIS K 0214のほうがしっくりきますね。溶媒だって,極微量成分だって重要な要素ですし,測定対象成分とも何らかの相互作用を示しているでしょうし,結果として測定に何らかの影響を与える可能性があります。分析化学分野の定義では,「行列」とか,「格子状」ってニュアンスは感じ取れないんですが,多種多彩な試料の構成物が複雑かつ多元的に作用しあっているってことで,「試料の構成物」すべてを「マトリックス」と呼んでいるんでしょうね。私は,試料中の成分が明らかに不要なもの,妨害するものである場合には,それらを「夾雑成分」とか「妨害成分 (干渉成分)」と区別して呼ぶようにしてはいるんですが,時々「マトリックス = 妨害成分 (干渉成分)」になってしまい,きちんとした使い分けができていないことがあります。気を付けないといけないですな。反省します!

この「マトリックス」により引き起こされる影響は,「マトリックス効果」と呼ばれています。この用語についてもJISの分析化学用語に規定されています。

JIS K 0211:2013 分析化学用語 (基礎部門)

9079 マトリックス効果 分析によって得られる信号などが,共存するマトリックスの影響を受けて変化する効果。matrix effect

JIS K 0214:2013 分析化学用語 (クロマトグラフィー部門)

491 マトリックス効果 a) GCの場合:試料溶液中の共存成分がGC注入口のライナー又はカラム内の活性点などに吸着することによって,標準試料溶液注入時と比較して分析種の回収率が変化し,分析結果に影響を及ぼす現象。b) LC/MSの場合:試料溶液の分析種の感度が,マトリックスの影響によって標準溶液と比較して増大したり減少したりする現象。注記 試料溶液の分析種以外の共存成分の影響による。matrix effect

2つの規格で存分異なった定義になっていますが,広義では「分析種以外の共存成分 (マトリックス) の影響による効果・現象」ということでよいかと思います。

一般に,マトリックス効果としては,保持時間の変動,ピーク面積の変動,検出感度の低下・増加,回収率の低下等があり,極端な場合にはピークの消失すら生じてしまうことがあります。逆に,目的対象成分が存在していないにもかかわらず,共存成分の影響で目的成分のところにピークが検出されたりすることがあります。吸着性成分を含んでいるような試料の場合には,未知ピークが不定期に発生するなんてこともありますよ。当然,試料の溶媒そのものによってもこのようなマトリックス効果が引き起こされてしまうこともあります。

尚,ピークの重なりによる定性の誤認や定量精度の低下も共存成分による影響であることは間違いないんですが,このような現象・結果は一般にマトリックス効果とは呼ばれていません。「もう少し努力して分離をしろ!」ってことなんですかね?しかし,巨大共存成分との重なりによって定量精度が大幅に低下している場合では分離が困難なことがあります。また,検出器に応答しないあるいは感度が非常に低い成分が重なっていることによって,測定対象成分の感度が変動 (減感,増感) している場合にも対処は難しいですね。このようなケースもマトリックス効果と呼んで良いと思います。

 
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試料溶媒もマトリックスであると述べましたが,イオンクロマトグラフィの試料は主に水溶液ですので溶媒は水です。イオン交換モードにおいて,水は保持力に影響を与えることはありませんが,ウォータディップの発生原因ですので,注入量を大きく (大容量注入を採用) した場合には,フッ化物イオンのような溶出の早い成分の定量性が若干低下してしまう恐れがあります。一方,試料中の有機溶媒は,水とは異なり種々の問題を引き起こします。水と混和する有機溶媒であっても,そのものに起因するベースライン変動やその周辺に溶出するイオンの感度変動,疑似的なイオン交換容量の低下による溶出時間変動やピーク形状の変化等が発生します。当然,水と混和しない有機溶媒の場合にはさらに深刻になり,最悪の場合には分離カラムの劣化に繋がってしまうこともあります。従って,分離カラムに注入する前に何らかの前処理で除去しておくべきです。

試料溶液のpHも事前に調べて対応すべき項目です。試料溶液のpHが変化することにより,溶出時間変動やピーク形状の変形等が引き起こされてしまいます。これはイオンクロマトグラフィ用イオン交換樹脂のイオン交換容量が小さいため,高濃度のイオン性マトリックスが溶離剤としても働いてしまうためです。溶出時間変動については「第玖話 溶出時間の変動 -2」に書きましたが,図9-4に示した試料pHによる溶出時間変動の例を再度示します。左側が塩基性,右側が酸性試料の測定例です。水酸化ナトリウムを添加してpHを高くした塩基性試料のほうが,同じだけpHが離れている酸性試料よりも溶出時間の変動幅が大きくなっています (図左側)。これは溶離液の溶離強度の変化 (NaHCO3がNa2CO3に変化することに依存) が大きいためです。陰イオン分析では溶離液pHより高い場合,陽イオン分析では溶離液pHよりも低い場合に大きな溶出時間変動が生じます。尚,下図に示した酸性試料は硫酸を添加してpH調整したもので,硫酸のピークはクロマトグラムから削除してあります。

図9-4 試料pHによる溶出時間変動

上記のような溶出時間への影響を低減するには,試料pHを中性付近に近づければよいということになります。試料中の測定対象成分が安定して定量できる範囲まで,純水 (あるいは溶離液) で希釈してください。試料pHが大きく離れている場合には,陽イオン交換樹脂あるいは陰イオン交換樹脂を充填した固相抽出カートリッジを用いて中和してください。酸やアルカリを添加してpH調整すると,新たなマトリックス効果を引き起こされてしまいますので絶対に避けてください。

さらに,試料中にイオン交換樹脂に吸着する成分や分離カラム内で (pH変化や溶離液と反応して) 沈殿が生成する成分が共存していると,急激な溶出時間の減少やピーク形状の変形が引き起こされてしまいます。最悪の場合,数回しか注入していないにもかかわらず分離カラムが劣化してしまうこともあります。吸着性成分による影響の一例として,第玖話の図9-5の色素中の陰イオンの測定例をもう一度示します。溶出時間の減少は,イオン交換基がマスクされて見掛けのイオン交換容量が低下するためです。イオン性が高く保持の高い多価イオン,高疎水性有機化合物,分離カラム中で沈殿してしまう成分等が存在しているとこのような現象が発生します。また,下記の図9-5にも見ることができますが,吸着性成分の影響により,ピーク面積値の変化や不定期な未知ピークの発生等が観察されることがあります。

図9-5 色素中の陰イオンの測定

JISの定義では測定対象成分 (分析種) そのものはマトリックスとは呼ばないんですが,測定対象成分自身の濃度が変化するだけでも溶出時間が変動してしまいます。下記に,第玖話の図9-1を再度示します。このような試料濃度の影響 (濃度依存性) は分離カラムのイオン交換容量が低い場合に観察されます。イオン交換容量が低いため,多量の試料成分を分離カラム先端に留めおくことができずに一部が動き出してしまうのです。濃度依存性は分離カラム充填剤の種類に大きく依存しますので,高濃度試料を測定する場合には高イオン交換容量の分離カラムを選択するようにしてください。また,分離カラムの負荷を低減するように試料注入前に希釈を行ってください。

図9-1 試料濃度による溶出時間変動   Conditions: Metrosep C4-150/4.0, 1.7 mM HNO3/0.7 mM dipicolinic acid, 0.9 mL/min, 30ºC Metrosep C6-250/4.0, 7.25 mM HNO3, 0.9 mL/min, 30ºC
 
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今回は,「マトリックスってなあに?」,そして「マトリックス効果とは」ってことをクリアにしておきたかったんで,若干長々と書いてしまいました。まぁ,ずっとしっくりこないままでいた言葉ですので,皆さんよりも私自身が勉強になりましたね。今回の話を書きながら,「イオンクロマトグラフィで精度良く測定を行うためには,容易に認識できる夾雑成分/妨害成分だけでなく,試料中のすべての共存成分,溶媒や液性も含めた構成物も十分頭に入れた上で測定条件を設定しなければならない」ってことを改めて認識しているところです。次回からは,実試料の測定例を示しながらマトリックス効果とその対策に関して話をしてきたいと思っています。

それでは,また・・・

 

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