今回はマトリックス効果の5回目です。高濃度イオンの妨害解消対策、特にナトリウムイオンの主な対イオンである塩化物イオンの影響について、さらに前処理による塩化物イオンの除去法について、ご隠居さんがわかりやすく解説しています。
シーズン4 その貳拾参(二十三)
こんにちはぁ~。ここ数回はマトリックスの影響が主題なんですが,よくよく考えてみると,分析そのものがマトリックスとの闘いなんです。HPLCもGCも…。原子吸光やICP-MSだってマトリックス対策が必要不可欠です。けど,イオンクロマトグラフィにおけるマトリックスの影響は,他の分析法と比べてもとんでもなく大きいと思います。理由はいくつかあるんですが,一番はイオンクロマトグラフィの主な検出手段が電気伝導度検出だということです。電気伝導度検出器はイオンの検出に有効なんですが,妨害となるマトリックスがイオン性であれば測定対象イオンとともに分離カラムに保持され,電気伝導度検出器にも明確に応答してしまいます。この時,マトリックス濃度が低ければまだいいんですが,マトリックスと測定対象イオンとの濃度差が3桁も,4桁も,それ以上もあるんですね。さらに,それらのマトリックスを事前に除去しようとすると,測定対象イオンも一緒に除去されてしまうなど,有効な前処理手段がほとんどないってのも問題です。したがって,イオンクロマトグラフィを使いこなし,期待する結果へと導くには,種々のマトリックスへの対応策を身につけておかねばならないんです。
2回続けて高濃度ナトリウムによる影響について書きましたが,水試料を測定対象とするイオンクロマトグラフィにとって,どこにでも存在するナトリウムはカチオン分析における最大の厄介もんです。けど,ナトリウム以外にも身近に高濃度で存在するイオンはいっぱいあります。
チョット唐突ですが,「クラーク数 (Clarke number)」ってご存じですかね?
クラーク数はアメリカの地球化学者,Frank Wigglesworth Clarkeにちなんだ数値で,地表付近の地殻中 (地下10マイルまでの岩石圏,水圏,気圏) に存在する元素の割合を質量パーセント濃度で示したものです。表1に,上位20番の元素を示します。20番目までで地殻を構成する元素の99.873%を占めています。ちなみに,25番目の元素は銅で,25番目までの累積値は99.908%となります。この表の中には,汎用的にイオンクロマトグラフィの測定対象となるイオン性の元素,あるいは多原子イオンを構成する元素が多数含まれているということがわかりますね。
5番目 ~ 8番目が,陽イオン分析の対象となるカルシウム,ナトリウム,カリウム,マグネシウムで,20,000 ppm (mg/kg) 以上も存在しているんです。カルシウムやマグネシウムの多くは酸素とくっついて酸化物を形成するため,通常,水試料中の濃度はナトリウムやカリウムよりも低いのですがどんなものにも存在しているイオンです。
前回,前々回と,ナトリウムイオンによるマトリックス効果についてお話ししましたね。で…,今回は,ナトリウムイオンの主な対イオンである塩化物イオンの影響について話をしようと思っています。
高濃度の塩化物イオンを含む試料というとやはり海水ですかね。海水の塩分濃度は約3.4%で,ナトリウムイオン濃度は約1.06%,塩化物イオン濃度は約1.90%です。このほかの陰イオンとしては臭化物イオン,硝酸イオン,硫酸イオンが存在し,僅かですが亜硝酸イオンやリン酸イオンも存在します。このうち,亜硝酸イオン,硝酸イオン及びリン酸イオンは富栄養化等に関与するため,海洋状態の監視指標となるイオンです。
イオンクロマトグラフィでは,一般的な水試料中のイオンの一斉分離が可能ですが,海水の測定となると高濃度塩化物イオンの妨害で亜硝酸イオンを分離定量することができなくなってしまいます。図23‐1に,20倍希釈した海水中の陰イオンのクロマトグラムを示します。高濃度の塩化物イオンと硫酸イオンの他に,臭化物イオンと微小な硝酸イオンが検出されています。亜硝酸イオンも僅かに存在しているはずなんですが,塩化物イオンの大きなピークに隠れて検出することはできません。
さて,どうしましょう?四方山話の読者なら簡単ですね。紫外吸収検出器を付ければいいんです。
紫外吸収検出器を付けるだけでも解決することもありますが,再現性良く測定するためにちょいと工夫をしましょう。高濃度試料を注入するのですから,イオン交換容量が高く,濃度の高い溶離液を用いたカラムを選択するのがベストです。これにより希釈倍率を小さくすることができます。
図23‐2は,Metrosep A Supp 10を用いて,電気伝導度検出器と紫外吸収検出器で測定した疑似海水のクロマトグラムです。20 g/Lの塩化物イオンを含む模擬海水中の0.11 mg/Lの亜硝酸を検出することができています。
図23-2のクロマトグラムでは,塩化物イオンとの濃度差が20万倍もある亜硝酸イオンを測定できているのですが,ご覧の通り塩化物イオンのピーク形状は変形していますので正確に定量することはできません。硫酸イオンも同様に変形していますので,電気伝導度検出器を接続していても全く意味がありません。これらのイオンは測定対象外ということです。電気伝導度検出器もサプレッサもつけず,紫外吸収検出器だけで検出するということであればもっと思い切ったことができます。
溶離液に塩化物イオンを入れてしまえばよいのです。試料溶液中の塩化物イオンと近い濃度の塩化ナトリウム水溶液を溶離液に用いることで,試料中の塩化物イオンの妨害 (分離と検出上の妨害) を一気に相殺することが可能になります。
図23-3及び図23-4に,10 g/Lの塩化ナトリウムを溶離液としたときの疑似海水及び食塩水のクロマトグラムを示します。当然,検出は紫外吸収検出器 (218 nm及び210 nm) です。この方法により試料中の塩化物イオンに基づくピークはほとんどなくなりますので,試料注入量を増加させることが可能になります。その結果,µg/L (ppb) レベルの亜硝酸イオンを定量することができます。
塩化ナトリウム水溶液を溶離液として用いる分離手法は,種々の塩化物中の紫外吸収を持つ陰イオン (亜硝酸イオン,硝酸イオン,臭化物イオン,ヨウ化物イオン,チオシアン酸イオン等) の測定に応用可能です。図23-5は,塩化カルシウム中の陰イオンの測定例です。
今回は高濃度イオンの妨害解消の話なんですが,最後に前処理による塩化物イオンの除去法について紹介しておきましょう。
試料中の油分や有機物の除去法としては疎水性樹脂を用いる固相抽出法 (SPE) が広く用いられています。イオン性の高い無機イオンは疎水性樹脂に捕捉されることなく,固相抽出カートリッジを通過してきます。これを回収すれば測定試料として使用できます。一般に,固相抽出法ではイオン性成分の除去や濃縮にはイオン交換樹脂を用いますが,塩化物イオンだけを捉まえて他のイオンは通過させる (あるいはその逆の捕捉挙動を示す) イオン交換樹脂なんて存在しません。
ではどうするのかというと,不溶性の塩の生成です。一般にハロゲン化物イオンは銀イオンと結合して不溶性の塩を形成します。つまり,銀型にした陽イオン交換樹脂に塩化物イオンを含む試料溶液を通液[AM1] すれば,塩化物イオンは塩化銀となって樹脂表面に捕まり,他のイオンはイオン排除効果で速やかに溶出してくるというわけです。図23-6に,銀カラム (銀型陽イオン交換樹脂充填カートリッジ) による塩化物イオンの除去法とその効果を示します。この方法では,塩化物イオンだけでなく臭化物イオンも除去されてしまうことに注意してください。
銀カラムはイオンクロマトグラフィ用の固相抽出カートリッジとして市販されていますが,使用には若干の注意が必要です。銀カラムの基剤樹脂は陽イオン交換樹脂です。陽イオン交換樹脂を硝酸銀溶液に浸漬する,あるいは陽イオン交換樹脂を何らかのカラムに充填して硝酸銀溶液を通液することにより対イオンを銀イオンに変換します。したがって,銀型樹脂中に硝酸イオンが残存している可能性がありますので,使用前に超純水で十分に洗浄しておかねばなりません。図23-7に,銀カラム (Bed volume: 0.5 mL) からのイオンの溶出量を示します。硝酸イオンの他,塩化物イオン,硫酸イオンが溶出し,純水10 mL以上を通液しなければならないことがわかります。
図23-8に,銀カラムで前処理した海水中の亜硝酸イオン及び硝酸イオンの測定例を示します。塩化物イオンは完全には除去されていませんが,亜硝酸イオンの定量には全く影響しない程度まで低減されています。この手法は煩雑でコストも高くはなりますが,カラムへの試料負荷が大幅に低減されるため高感度定量が可能となります。また,下図では検出されてはいませんが,リン酸イオンの定量も可能となります。ここでは純水20倍希釈した海水を銀カラムに負荷しましたが,銀イオンの溶出・混入を防ぐため出口側にNa型のカートリッジを接続して通過液を回収しました。
今回は,高濃度塩化物イオンの妨害解消策についてお話をしました。塩濃度,特に塩化物イオンや硫酸イオン濃度が高い試料中の亜硝酸イオンや硝酸イオンを測定されている方はかなりおられると思います。今回紹介しました塩化ナトリウム溶離液は既に利用されている方も結構おられると思いますが,簡便でかつ有効な手段ですので,高濃度塩化物イオンの妨害でお困りの時にはぜひ試してみてください。
次回も高濃度イオンの妨害解消策について話をしようかと思っています。それでは,また・・・
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